■機械設計者として情熱を燃やす小松さん
現在、市内の65歳以上の人口は1万5,000人。
市全体で占める割合は7パーセント。さらに20年後には約12パーセントの3万人になると予想されます。
いやおうなしに高齢化社会の進む中で、市は昨年の10月、県下初の「高齢者事業団」をスタートさせました。
これは、自分の経験と能力に応じた労働をすることによって、「健康」と「生きがい」を増進させ、さらに一定の収入を得るというものです。
今回、この事業団の会員で「自分の経験を社会のために生かしたい」という鈴川3丁目の小松達郎さん(74歳)を紹介しながら、お年寄の生きがいについて考えてみました。
■70歳から勉強を
小松さんは、明治40年8月1日生まれ。長女の慶子さん(44歳)とお孫さんの明子さん(19歳)、有子さん(14歳)の4人で暮らしています。
小松さんは、昭和10年に川崎に本社がある大手電気会社へ勤務。昭和20年に富士工場へ転勤し、昭和38年の定年退職まで、機械設計者として技術畑ひと筋に歩んできました。
定年退職後は、大仁にある関連企業へ、機械設計者として昭和46年まで勤めました。
その間、昭和45年には人生の最大の不幸ともいうべき、奥さんと長男、それに長女のご主人の、3人を病気で亡くされてしまいました。
仕事も手につかない毎日でしたが、自分のことはもとより、長女の家族のことも考えなければならず、よしっ、これからは本気になって仕事を始めよう−と…。
この時、小松さんはすでに67歳。
昭和47年に自宅へ設計事務所を構え、自分で設計の仕事を始めました。
最初のうちは、なかなか仕事もありませんでしたが、知人などの紹介により仕事も増え、忙しい毎日となりました。しかし、70歳を過ぎると仕事も減る一方。
そこで、小松さんは、70歳を境に設計の勉強をもう一度やり直そうと思い、基礎から学び始めました。
この時、「小人(しょうじん)閑居(かんきょ)して不善(ふぜん)をなす」という諺を常に自分にいいきかせました。
■思いがけず仕事が…
それから3年、73歳という年齢から「もう自分を使ってくれる所はないだろう」と思いながらも、設計の勉強を毎日続ける小松さん。
そして、去年の9月に「高齢者事業団」が出来ることを知り、10月の発足と同時に会員となりました。
会員になったときは、「自分は高齢だけれど、設計の仕事を少しでも生かせる場があったら」という気持で申込みを−。
会員になってから半年後、半ばあきらめかけていた小松さんに、事業団から、「仕事の話しがあるから来るように」との連絡。
仕事の発注先は、市内の鉄工所でした。
小松さんは、「世の中には、随分きとくな人がいるものだ」と思ったそうです。
仕事の内容は、まさに自分が今まで勉強してきたものとピッタリ。
さっそく返事をして、次の日から仕事に出かけました。
仕事を始めてから5か月。毎日、機械設計に追われている小松さんは、「本当にいい仕事をいただいたと感謝しています。世の中には、私よりもっと立派な技術者がいるのに…」と話しています。
■社会に役立てれば
一方、仕事の発注先である鉄工所の事業主は、「設計と溶接の経験者が必要−ということで、今年の4月に事業団へ申込みました。小松さんは、歳はとっていても若い人とぜんぜん変わらない仕事をします。」さらに、「大企業などでは、55歳から60歳位で定年退職になってしまうが、技術を持っている人は、もっと活躍してほしい。市内には、優秀な技術者が相当いるのでは…」とも話しています。
最近の小松さんを、長女の慶子さんは次のように見ています。「主人がいないので、子どもの父親代わりにもなっていますが、仕事を始めてからは特に、張切っています。いい仕事をいただいたと感謝しています」
お年寄の生きがいについて小松さんは、「歳をとってから一番困ることは、社会と絶縁してしまうことです。週に1回でも2回でも仕事をすることが必要」最後に、「今までの体験を生かして社会に役立てれば幸せです…」と話していました。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 〔今日も機械設計に励む小松さん〕
( 写真説明 ) 〔現場での打ち合わせも…〕