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【広報ふじ昭和56年】ふるさとの昔話

わがまちの紙のルーツ

その2 明治初期

 今から1874年前、中国の蔡倫(さいりん)は木の皮や麻(あさ)、ぼろきれを原料に世界で初めて紙を作りました。日本に紙の作り方が伝わったのは、今から1360年前の推古(すいこ)天皇の時代、韓国の曇徴(どんちょう)によってと日本書記に書かれています。
 このように紙の歴史は大変古いのですが、わがまちの紙の歴史は比較的新しく、明治になってから始まりました。今回は、なぜ明治時代からこの地に製紙産業が始まり、発達してきたかを調べてみました。


製紙発達の出発点

 明治4年、宿駅制度が廃止(はいし)され、同時に宿駅の馬や人足(にんそく)の都合(つごう)をつける村々の助郷(すけごう)制度もなくなってしまいました。
 この助郷(すけごう)勤めの日銭(ひぜに)が宿場のまわりのお百姓さんの唯一(ゆいつ)の現金収入の道でしたから、この制度の廃止はお百姓の生活を苦しいものにしました。何かほかに収入になるものを見付け出そうといろいろな試みの事業がはじまりました。このようなことを難しいことばで殖産興業(しょくさんこうぎょう)といいます。
 わがまちの紙の発達史の出発点は、殖産興業の一つであった内田平四郎さんによる内山でのみつまたの栽培からなのです。みつまたは、戦国時代からの伝統のある駿河半紙の原料でもあり、富士山麓に自生(じせい)していたので種も手に入りやすく、栽培がすすめられたのです。
 その後、みつまたは今泉・原田・吉永・須津などで大栽培されるようになり、わがまちの和紙工業の発達をうながすようになりました。


初めての製紙工場

 明治12年、伝法の栢森貞助(かやもりていすけ)さんは和田川べりに富士市で初めて鈎玄(こうげん)社という手すき和紙の工場をつくりました。より白い紙を作ろうと、当時は輸入品で高価だった苛性(かせい)ソーダや硫酸(りゅうさん)を石灰の代りに晒薬(さらし)として使い良い紙を作ったのですが、採算(さいさん)がとれず鈎玄社はつぶれてしまいました。
しかし、鈎玄社が残した功績(こうせき)は大きく、画期的な晒薬の使用は薬製半紙製造法の基礎になり、大量のみつまたの使用は、みつまたの栽培をより盛んなものにしたのです。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 市立博物館にある日本初の機械すき和紙工場 原田製紙の第1号抄紙機の模型
( 写真説明 ) みつまた・名の通り3つに必ず枝別れしている。


お札(さつ)の話

 和紙の代表としてお札の話を。お札の原料はみつまたとマニラ麻で、1枚を造るのに1万・五千円札が20円ぐらい、千・五百円札は10円ぐらい、寿命は2年ぐらいだそうです。
 昭和55年の印刷枚数は1万円札が60億3,000万枚、次いで千円札の15億9,000万枚でした。
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