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【広報ふじ昭和56年】ふるさとの昔話

名物 うなぎの蒲焼

間の宿(あいのしゅく)「柏原」

 東海道をかごや馬に乗った人々が行き交(か)っていた江戸時代、東海道五十三次の吉原宿と原宿の間に間の宿(あいのしゅく)「柏原」がありました。
 柏原宿のあった国鉄東田子の蒲駅の西側あたりで、ここには9軒の茶屋(今でいう食堂)があり、浮島沼でとれたうなぎやなまずの蒲焼を名物に繁昌していました。この9軒の茶屋のうち、大正の頃まで営業していたのは酒惣(さかそう)という茶屋1軒でした。
 今回は、この洒惣が母親の生家という市史編さん室の鈴木富男先生に間の宿「柏原」について、いろいろ教えていただきました。

■間の宿「柏原」はどうして設けられていたのですか?
 吉原宿と原宿の間が三里六町、約14キロメートルもあったので、この中間にあたる柏原に休けい所として間の宿ができたらしい。元禄(げんろく)3年(1690年)に出版された東海分間絵図(とうかいぶんけんえず)に「かしわ原、茶屋かずかず、ここにうなぎ売りあり」と書かれていることからも柏原のうなぎの蒲焼きは元禄以前から名物として旅人の味覚を楽しませていたことが分ります。また、間の宿柏原の成立も江戸時代の初期にさかのぼることができます。
 このほか、十返舎一九(じゅぺんしゃいっく)の東海道膝栗毛(とうかいどうひざくりげ)の中にも、ここはうなぎの名物にて、家ごとにあおぎたてる蒲焼のにおいに、二人は鼻をひくひくさせ、うなぎと難儀をかけた「蒲焼のにおいを嗅ぐも、うとましや、こちら二人は、うんなぎの旅」と言って、がまんして素通りしたことが書かれています。

■なぜ茶屋がなくなったのですか?
 明治4年に宿場制度が廃止され、この柏原宿もなくなったのが大きな原因。でも明治になっても細々やっていたらしいが、明治22年、鉄道が通ると客足がばったり減り、大正の頃までやっていたのは酒惣だけだった。酒惣のおばあさんのところへ行くと、うなぎの蒲焼をごちそうしてくれながら、「幕末のころは“遅い!”と峯打ち(みねうち)“早く持ってこい!”と柱に斬りつける武士がいて、こわかったよ」と話してくれました。
- 写真あり -
うなぎの蒲焼のいいにおいも、金のない俺たちには“うんなぎの旅”と弥次さん、喜多さんが、がまんして通った柏原の間の宿でした
鈴木先生
- 写真あり -

「釣りをやりたいが、郷土史の仕事が忙しくて」と誇る鈴木先生。
 とても78歳とは思えないほど若々しい。郷土史の研究は旧須津村の助役時代からで出版した本も20冊近くになる。富士市の歴史関係なら、この先生の右に出る者はない。
- 図表あり -
( 図表説明 ) 間の宿「柏原」
添付ファイル
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