おあじと別々に一夜をあかした6人は、この出来事を国元(くにもと)へ知らせようと引き返していきました。
柏原まできたとき、その中の1人が「おあじ1人をぎせいにして、私たちだけが国元(くにもと)へはもどれない。いっそ私たちも死にましょう」といい、6人は、相談して、柏原の沼へ身を投げて死んでしまいました。
一方、おあじはすでにかくごし、「わたし1人が死ねば、多勢の人が助かるのだ」と心に思いました。
そのころ前田村に保寿寺(ほうじゅじ)(現在上田端)というお寺があり、そこの芝源和尚(おしょう)は、徳川家康から、「その毒蛇を退治せよ」と命令されました。
そこで芝源和尚(おしょう)は、100人の僧をあつめて、三ッ股渕(またふち)の西岸にある水神の森で、毒蛇(どくだ)を退治するお経をとなえました。
6月82日のまひるどきです。
空は一点の雲もなく晴れわたっています。
お坊さんたちのお経の声は、鏡のような水面をすべって四方にひびきます。南側の岸には、白装束(しろしょうぞく)のおあじが小舟にのって、ジッと芝源和尚(おしょう)の合図をまっています。
お経の声はだんだんと熱をおびて、水底深く沈んでいる大蛇にも聞こえるかと思われました。
とつぜん、渕の水面が波立ってきました。そして大きなうず巻ができ、急に空が雲り、やがて大雨とともに大地もさけるかと思うような雷がとどろきました。芝源和尚(おしょう)は、一段と声をはりあげてお経を読みました。
三ッ股渕の水は、数10メートルの高さにのぼり、人々は目をつむって地にふせました。
まもなく渕はもとの静けさにもどって、何事もなかったようです。
ふと見ると芝源和尚(おしょう)のそばに、大蛇のうろこが5〜6枚散らばっていました。
お坊さんたちの力で命が助かったおあじは、6人の友達の後を追って柏原まで来ましたが、友達がみんな死んでしまったことを知りました。
余りの悲しさにおあじも、同じ柏原の沼に身を投げて死んでしまいました。
吉原宿の人たちは、おあじの霊をなぐさめるため、鈴川の砂山に阿字(あじ)神社をたてました。