それは、寛文(かんぶん)のころといいますから、今からおよそ300年ほど前のことでした。
よく晴れた秋のある日、じゅんれい姿の老夫婦が、あたりのけしきをながめながら籠下(かごした)村(松岡村)の代官じん屋の前までやってきました。
そのとき、とつ然門の前にいた役人が老夫婦の前に立って「はなはだ申しにくい事だが、あなたに折入ってたのみがある。実は……」と話しだしました。それは次のような話しでした。
千人目の者を人柱に
「ごらんのように、この附近の田んぼは、ぜんぶ河原になっている。
ここに堤防をきずくが、大雨のたびに流されてしまう。」
「ここのお代官は、この富士川の洪水をふせぎ、田んぼを守ろうとしてばく大なお金をかけており、すでに親子3代の歳月がたっている。
築いた堤防を守るには、神仏のたすけにたよるほかはない。
そこで、富士川を渡ってくる千人目の人を人柱に立てることに決めた。
「実は、その千人目の人があなたです。どうか村人のために人柱になってほしい。」と役人はたのみました。
それを聞かされたじゅんれい夫婦は、顔色が変わるほどおどろきました。
諸国をじゅんれい ふたたび代官じん屋へ
「よくわかりました。私たちには子どもも身寄りもありません。そのためこうして諸国の霊山霊場をさんぱいしているのです。もし私の命がみなさんのお役に立つならば、よろこんでお受けしましょう。」
「しかし、これから東国の霊場をまわらなければなりません。それが済んだら、かならずかえってきます。」とやさしくいいました。
それから3か月後のある日、東国じゅんれいを済ませた老夫婦は、ふたたび松岡の代官じん屋にかえってきました。
おそらく帰ってこないだろうと思っていた役人たちはびっくりしました。
地底から21日間かねの音が聞こえる
そして、あくる日、「では、くれぐれも妻をたのみます。」といいのこした男のじゅんれいは、かりがね堤の人柱になりました。
場所は堤防をなん度きずいても流されるかりがね堤のまがりかどです。
じゅんれいは、ひつぎの中に入るとき、「この穴の中からかねの音が聞こえている間は、私がまだ生きていると思ってください。ねんぶつの声もかねの音も聞こえなくなったときが、私の死んだときです。」
ひつぎが静かに穴の中へおろされ役人も農民も、見物の旅人もこれを見守り、ねんぶつをとなえています。
お経の声はあたりにこだまして、富士川の川瀬にしみこんでいきます。
それから21日の間、地の底からかすかにかねの音が聞こえてきました。
今なお、人柱になったじゅんれいのたましいは、このかりがね堤にとどまって、この堤を守りつづけています。村人は、じゅんれいを神とあがめ、護所神社としてまつっています。
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( 写真説明 ) 人柱をまつってある護所神社