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【広報ふじ昭和53年】ふじ・あしたかの自然への招待 6

地質・地形(No.5)

地質・地形の移り変わり

■湿原(しつげん)
 今から約5,000年前の駿河湾は、富士山や愛鷹山のふもとまで入りこんでいましたので、今の浮島ヶ原は海の底でした。しかし、陸地に近い海底では、富士川によって運ばれた砂レキがつもり、かまぼこのような細長い「州(す)=沿岸州(えんがんす)=」をつくっていました。
 その後、海面がさがるにつれて、今まで海中にあった沿岸州が姿を現わし、天の橋立(あまのはしだて)のような砂州(さす)ができました。この砂州のために、海は外海と内海にわけられ、内海が今の浮島ヶ原のはじまりです。
 内海は、やがて湖となり、その湖もしだいに流れこむ河川のたい積物などで埋め立てられて沼地となり、湿地に変わり、浮島ヶ原を形づくりました。
 最近まで、沼地が残っていたところから、“浮島沼”とも呼ばれています。

■砂丘(さきゅう)
 富士川の河口から沼津市の牛臥山(うしぶせやま)まで、海岸線に平行にできている砂丘を、田子の浦砂丘と呼びます。この砂丘は、沿岸州として発達した砂州の上に、風や波によって打ちあげられた砂が重なってできています。
 砂丘は、幅が200メートルから900メートルもあり、高さは平均10メートルで、高い所では20メートルもあります。

■平野
 加島平野も、もとは、浮島ヶ原のおいたちのように海の底で成長していた富士川の三角州です。
 その後、海面がさがるにつれて、陸地が現われ、その上に、さらに流れてきた土砂が扇のように(扇状地)(せんじょうち)たい積しました。これが加島平野で、岩本の実相寺付近が扇のかなめの部分にあたっています。
 その当時の富士川は、水神のまえで東に向を変えていくつもの支流をつくっていました。江戸時代になって、難工事のすえ、古郡文右エ門重年によって、雁堤(かりがねづつみ)が完成(西暦1674年、延宝2年)しその時から、富士川の流れが変わり、当時小さな支流だったところが本流となり、いまのすがたになりました。(次回からは気象を連載します)
- 図表あり -
( 図表説明 ) 浮島ヶ原のできるまで
- 写真あり -
( 写真説明 ) わずかに湿原のおもかげをしのばせる、ヌマトラノオとヨシ(沼川と須津川の合流点付近)
添付ファイル
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