中国人興亜建設隊物故者33回忌法要ならびに無縁仏慰霊祭が8月20日市内中丸の共同墓地で、しめやかに営なまれました。この日、会場には斉藤、渡辺、勝又国会議員をはじめ地元選出の県会議員や地元住民多数が列席しました。まず渡辺市長、中井市議会議長から慰霊のことば、高田導師の祭文などがつづき、読経、焼香が行われ、53名の犠牲者の冥福を祈りました。
中丸区がまとめた「中国人興亜隊物故記」のあらましによれば、次のとおりです。
この中国人の犠牲者たちは、昭和19年6月、当時、陸軍の命令により田子浦飛行場を建設するため熊谷組が工事を請負、地域住民200余戸の強制移転があって建設作業が行われました。このとき主な労働力は徴用労務者、朝鮮人労働者と一部の捕りょが使われ、この捕りょが実は強制連行された中国人であった。この人たちは、昭和19年10月8日と23日の2回にわたって、この田子浦飛行場に送られ、ここで興亜建設隊に編入され、毎日12時間、滑走路づくり等の重労働にあけくれていました。
また、食事は、朝は雑炊、昼と夜はマントウ(里イモ粉、穀粉とメリケン粉をまぜたもの)2個の非常に粗末なものだった。このようなきびしい生活に堪えかねてゲートルで自殺する中国人もあったという。
富士市での死者は53名で死因は、肺炎、胃腸炎が目立ち連日の肉体労働と冬の寒さに耐えるだけの最低限の衣食住さえ保障されなかった。死亡者は仲間たちが宿舎近くで火葬にし、この共同墓地に埋葬しました。
昭和28年ころ全国各地で中国人の犠牲者の遺骨送還が行われ、同29年5月17日実行委員立会いで五軒屋、新浜部落有志の手によって遺骨が発掘され、その場でダビに付され市内福泉寺において慰霊祭が行われました。遺骨は同年11月、中国紅十字代表の李徳全女史が来日し、11月16日興安丸にて送還、同20日ターク着、天津で中国側に引渡されました。
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( 写真説明 ) 慰霊のことばをおくる渡辺市長