帳塚さん
江戸時代の農民は、自分達の作った農作物の半分くらいは、年貢として納めなければなりません。ですから、その日その日を食べていくのがやっとの生活でした。
今から270年くらい前のこと、ひでりが続いて作物がなにもとれない時がありました。食べるものがなくて農民は大変苦しんでいました。
ところが、作物はなにもとれなくても年貢は決ったとおり納めなくてはなりません。落合、中野、三ツ倉、片倉の4つの村では「どうしたらいいんだろう」とみんなで毎日話し合っていました。
農民の苦しい生活をみかねた落合村の名主新右衛門は「どうか年貢をまけて下さい」と領主にうったえましたが、いくらお願いしても領主はきき入れてくれません。
このうえは直接幕府にうったえようと、新右衛門は村を出ました。ところが、いく日たっても新右衛門は帰ってきません。1か月くらいたってから、江戸から死体を引き取りにこいと知らせがありました。
上下の関係のきびしいこの時代は農民が自分の意見をうったえることはゆるされないことだったのです。新右衛門の死をかけてのうったえでやっと村の年貢は軽くなりました。
その後、4つの村の人達は新右衛門の家の近くに石ひをたてました。石ひの下に、血判書やたんがん書など帳面をうめたので、今でも帳塚さんと呼んでいます。
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( 写真説明 ) 新右衛門を祭った落合の帳塚