日蓮と神四郎兄弟
鎌倉時代は、新しい文化がつぎつぎ起こりました。たとえば似せえ、鎌倉彫刻、てんじく様建築など、いままでとはちがった力強い個性的な文化です。
仏教にも、新しい動きがありました。なかでも日蓮(にちれん)は「法華経(ほけきょう)こそただひとつの正しい教えだ、ほかの教えは、人々の心をまどわし国をほろぼす悪い教えだ」と説いていました。また、実相寺で下書きした立正安国論を鎌倉幕府に提出しました。立正安国論は当時の幕府の政治をはげしく批判しこのままではかならず日本に国難がくるであろうというものでした。そのため、幕府は日蓮をにくんで、伊豆や佐渡に流したりしました。
日蓮の弟子に日興(にっこう)という人がいましたが、日興によって実相寺や厚原にあったという滝泉寺のお坊さん達も、つぎつぎと日蓮の教えに変っていきました。実相寺も滝泉寺もはじめは天台宗のお寺です。
滝泉寺の院主代行智(いんしゅだいぎょうち)というお坊さんは、鎌倉幕府と結んで日蓮宗がこの付近に広まるのをきびしくおさえ、滝泉寺の中で日蓮宗を信じたお坊さんを追放したりしましたが、日蓮宗はみるみるうちに人々の間に広まっていきました。あわてふためいた行智は、日蓮宗の熱心な信者である厚原の神四郎兄弟などお百姓さん20人をとらえて鎌倉に送りました。
日蓮は兄弟を助けようと、鎌倉に使いをだしましたが、もう神四郎兄弟3人は処刑されたあとでした。
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( 写真説明 ) 厚原の本照寺に神四郎の墓が