【広報ふじ昭和50年】学園ひろば
ふるさとの歴史
曾我兄弟のあだうち
富士川の合戦と壇の浦の戦いで平家をほろぼした源頼朝は、鎌倉幕府を開き、日本の国を治めました。
頼朝は源氏の力を全国にしめそうと、多ぜいの武将をひきつれ朝霧高原で盛大な巻狩を行いました。巻狩は、強い武将になるための大切な訓練です。
武将の中には、頼朝お気にいりの工藤祐経(くどうすけつね)もいました。祐経と曽我兄弟の祖父伊東祐親(いとうすけちか)は長い間、財産争いでにくみあっていましたが、祐泰(すけやす)=祐親の長男、兄弟の父=は狩の帰りに祐経の家来に殺されてしまいました。
十郎、五郎の兄弟は、父のかたきを討とうと祐経をねらっていましたが、なかなかその機会がありません。
1193年5月28日、頼朝はあすは下山するよう全軍に命令を出しました。それを聞いた兄弟は「今夜こそ」と刀を持ち、たいまつをかざして一歩一歩祐経のやかたに向いました。
祐経も家来もぐっすり眠っていましたが、兄弟は「おきろ祐経、長年のうらみ今こそ晴らさん」と祐経がおきあがるところをきりつけました。
十郎は討入りの夜殺されましたが五郎はつかまって鷹岡の久沢で首を討たれました。久沢には、兄弟を祭った曽我寺があります。
曽我寺は、身延線入山瀬駅から北東に300メートル、緑にかこまれた境内に入ると、右手に天然記念物の大きなカヤの木があり、そのすぐ下の苔むした五輪塔が、曽我兄弟のお墓です。また、討入りの5月28日には兄弟をしのぶお祭りがあります。
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( 写真説明 ) 久沢の曾我寺
新しい校舎ができたぞ
吉永第一小6年 矢崎至宏
楽しみにしていた新校舎がやっとできあがった。鉄筋3階建てのまっ白な新校舎は富士山を背にどっしりと建っていた。
願いがかなってぼくら6年生は、新校舎にはいれることになった。新校舎は、ガタガタの古い校舎にくらべるとだいぶちがっていた。給食のエレベーターがついていた。旧校舎は、すみがついたり色がおちたりくぎもいっぱいうってあった。新校舎の教室やカベはみんなきれいだ。黒板もうごく。みんなは、「すげ−。かっちょぶー。」なんて大さわぎして、黒板を上下に動かしてよろこんだ。後ろには、かばんを入れるはこもあった。トイレは、明るくてぜんぜんくさくない。いつまでもすわっていたい気がしてくる。旧校舎のトイレは、木造でくみとり式だったので、くさくて下を見るとおちそうでいやだった。
だけど前の校舎の方がいいなと思うことがある。それは、すこしぐらいよごれたって気にしないで自由にくふうして使うことができたから。
でも、この校舎は、これから先ずっと使われるのだ。よちよち歩きの赤ちゃんも、まだ生まれていない子どもたちもこの校舎で勉強していくのだと思うと、いつまでもきれいに使っていかなければならないと思っている。
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