浮島沼の周辺は、江戸時代から新田開発にもっとも適した土地でした。しかし海面と沼面の差がわずか1メートルくらいしかないので、大雨で沼に滞水すると5日も6日も水が引きませんでした。このため、沼の周辺に新田を開くには、沼の滞水を一刻も早く引かせることが先決問題でした。
原宿(現在の沼津市原町大塚)の増田平四郎はこの点に着目し、幕府に6回も直訴を行ないました。
そして、親類や地元の反対をおしきり、慶応2年(1866年)西柏原新田と田中新田との間(今の昭和放水路のところ)に俗にいう“スイホシ”を完成させました。このスイホシは長さは約550メートル、工費は5,800両、延10万6,500人の人足を使用してできた大堀割でした。ところが、完成して間もなく土用波で一瞬にして壊滅してしまいました。
しかし、明治に入り沼周辺の開墾が進むにつれ、ますます排水溝の必要にせまられました。そして現在の昭和放水路が昭和12年2月に着工され、5年の歳月をかけ完成しました。
昭和放水路は平四郎のつくったスイホシと同じ場所につくられました。これをみても平四郎の着想が非凡であることがわかると思います。
左の写真は増田平四郎がつくつたスイホシの跡(明治の初め)です。左は現在の昭和放水路です。(鈴木富男稿)
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