青島にはりつけ八幡という小さな神社があります 徳川5代将軍綱吉の時代、延宝9年(1681)に地方検地が行なわれました。検地というのは、幕府が農民から年貢を取り立てるため田の広さや米の収穫を調べることです。この辺りにも幕府の役人がきて、たいへん厳しい検地が行なわれました。
この頃、青島村は毎年不作が続いただけでなく、その前年には大津波の被害をうけ、農民は食べる米にも困っていました。
こうした苦しみから農民を救おうと検地を拒んだのが、青島村の名主川口市郎兵衛でした。市郎兵衛は一身を犠牲にして、役人に対し「村は不作続きですし、土地にも良い、悪いがあります。それを同じように測量して年貢を課すのでは不公平ではありませんか。私はこのような検地には反対です」といって役人を村に入れませんでした。
それから間もなく、大勢の役人がきて、市郎兵衛を捕え江戸に送りました。村人たちは心配して毎晩寄り合いをしました。そしてようすをみるため代表2人を江戸へやりました。しかし、その頃すでに市郎兵衛ははりつけにされていました、このとき市郎兵衛はまだ29歳の若さでした。
村人は悲しい知らせに涙を流し部落の八幡社に市郎兵衛を神として祈り、恩人の霊を慰めました。
それから後、この八幡社をはりつけ八幡と呼ぶようになつたといいます。 (鈴木富男稿)