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【広報ふじ昭和43年】わがふるさと100年の歩み ふりかえってみたい先人の気がいと業績

明治百年 1年目の素顔

東海道を駿府へ下る徳川家のひとたち
 「行きは官軍、帰りは仏、どうせ会津にゃかなうまい」これは有栖川宮(ありすかわのみや)を大総督として、錦旗を先頭にかかげて東海道を東に下る官軍をみて、この地方の人々がだれ彼となく口ずさんでいた狂歌でした。こんな狂歌があったということは、この地方の多くの人々は、駿州赤心隊や遠州報国隊のよぅに、無条件で尊皇、討幕の路線になびいていったわけではないことを示しています。
 それは、この地方が徳川重代の恩顧の地であるとか、安政開港による貿易の利益をより多くうけていたなどという、功利的立場を割り引いてもなお注目すべき動きでした。
 しかし以上のような、この地方の人々の幕府に対する期待やおもわくがそれがむなしいものであったとわかるためには、2か月以上の月日を必要としませんでした。
 慶応4年7月から8月にかけて、酷暑の中を東海道吉原宿を通って駿府に急ぐ大名行列に多くの人々は気付いたし、またわずかな世帯道具をたずさえた家族連れの士が、つぎからつぎへその後をたちませんでした。
 この大名行列は、いわずと知れた徳川宗家でした。朝敵の汚名こそまぬがれましたが、駿府七十万石に格下げされて、封地駿府に移るところでした。おかごの中には徳川宗家の相続人に定められた、幼少の田安亀之助(のちの徳川家達)がおさまっていました。
 いっぽう、世帯道具をひっさげて家族ぐるみで駿府をめざしていく人々は、徳川のあとを慕って江戸から駿府に移住を決意した、旧幕臣の無禄移住グループでした。こんなあわただしい動きの中であけたのが、この地方の明治百年の第一年目の素顔でした。

静岡藩の遺産とその継承者
野村一郎・内田平四郎らが内山を開墾
 駿府に移った徳川宗家は「府中」は「不忠」に通ずるといった縁起をかつぎ、静岡と改名し以後静岡藩とよびました。
 静岡藩は有能な人材がそろっていましたので、その人材をもって富国強兵を藩是とした領国経営に着手しました。家老大久保一翁を中心に、一時は欧州帰りの渋沢栄一も加わって、くりひろげた、殖産興業や教育文化政策には注目すべきいくつかのものがありました。
 殖産興業では、幕府の体得した国際的経験をいかし、当時外国貿易の輸出品中、生糸につぐものは茶であり、この地方が茶栽培に適していることに着目しました。そして、従来の産地の振興はもちろん、牧ノ原(榛原郡)三方原(浜松市)ならびに内山付近(吉原北部)を重点開発地域とし、土地の人々に開墾と茶の栽培とを強く推奨しました。
 これには、先にも指摘した旧幕臣への授産と、吉原宿などの解体に伴う、多数の交通労働者の失業救済という意味も含まれていました。このため、静岡藩は関係村々にばく大な茶の実をあたえ、栽培をすすめていました。
 静岡藩は、こうした茶栽培の成果を版籍奉還などによって汲みとることはできませんでしたが、その後この地方に輩出した野村一郎、内田平四郎、影山秀樹などの殖産興業家の手に継承されていきました。
 また、米麦を中心とした農業生産の拡充には、藩内の有能の士を水路利程係に登用し、各地のかんがい、治水工事、道路整備にあたらせました。この中の一人、佐々倉桐太郎は、かって咸臨丸で渡米した経験の持主でした。彼は、富士川堤防工事の指導、監督をして加島平野をこう水の害から守ることにつとめました。
 このように、かつて旧幕時代にはついに実現することのできなかった、農業構造の改善が、国際経済の動きのなかですすめられるという路線が、静岡藩の手によってしかれたのです。
 いっぽう教育文化政策では、沼津兵学校の設立や、静岡藩学校の開校など近代学校制度の採用に積極的でした。その中でもっとも注目されたことは、無縁移住者のうち土着した士族のなかにこの地方の人々と交り、この地方の教育文化の向上に果した功績です。これらの人々として磯部物外、深井譲、生駒藤之らの活躍や田村哲などもわすれることのできない人物です。

紙都富士市への道

富士製紙第一工場(鷹岡)や第八工場(現本州製紙)が創設
 版籍奉還で静岡藩が去ったあと、静岡藩の残した遺産は、殖産興業部門は土地の殖産興業家に、教育文化部門は土着士族の手で継続されて発展していきました。
 静岡藩によって先べんのつけられた内山開墾や広く裾野の開墾は、野村一郎、内田平四郎らの開拓精神で徐々に成功をおさめていました。また清水次郎長こと山本長五郎も見るべき成果をおさめています。
 また、影山秀樹は、自村岩本村に村内外の有志とともに勧業社を創立し、甲州谷村の製糸や織布の技術を導入して、農業構造の改造をはかっていきました。また、伝法村の栢森貞助は鈎玄社を組織し、竹を原料に製紙事業の開発にあたっていました。
 つまり、これら一連の人々の動きは、静岡藩の設定した殖産興業路線を定着化するための努力のあらわれと思われます。他方、安政の不平等条約の下における、国際市場のきょう威にさらされていた、旧生産構造の体質改善をしなければならないという、切実な要求を基調とした深刻な努力であったと思われます。なお国際市場のきょう威といえば、今日の自由化の比でなかったことにも思いをいたすべきだと思います。
 国際市場のきょう威をまともにうけていたのは、江戸時代中期以降その生産が軌道に乗り、生産圏と市場を拡大しつづけていた、富士地区北部や、庵原郡全域で農民の農閑余業として発達してきた「駿河半紙」の生産でした。外国紙の輸入により和紙の市場はだんだん狭くなり、深刻なものとなっていました。
富士駅誘敦に奔走した松永
 こうした背景で活躍するのが旧白糸村の渡辺登三郎です。中央の銀行家などに働きかけ、明治22年には富士製紙第一工場を誘致しました。この工場は、豊かな工業用水と、落差の多い潤井川を利用してたちまちその地盤をきづき、第二、第三を設立し、やがて第八工場(現本州製紙富士工場)と発展していったのです。
 この間の渡辺登三郎の努力や、第八工場の創立をめぐる加島村の地主松永安彦の犠牲的精神には、主義主張のいかんを問わず、明治の人の気がいと気骨を感じないわけにはいきません。
 つまり、第八工場の加島進出には、広大な工場用地と、当時としては至難とみられていた東海道線の新しい駅を誘致することが条件でした。このため、松永安彦はばく大な犠牲をはらったのです。
 “明治の人”というのは松永安彦こそその典型ではないかと思われます。
 いっぽう、これらの工場で立ち働く人々は、工場周辺の人でした。しかし、遠く吉原付近から通う人もかなりいました。これらの人々は決して豊かな生活状態ではありませんでした。それだけに現状にあまんずることもなく、こつこつと製紙技術を身につけました。こうして技術を身につけ人は、当時大変に貴重で、全国の製紙会社から盛んに引き抜きが行なわれ、各地を技術者として歩いた人も数多くありました。
六信舎と堀関製紙が生産競争
 こうした人の中に川口柳作があります。川口柳作は富士製紙に入社して間もなく、各地に技術者として招かれていたのちその技術を資本として製紙会社、六信舎を創立しました。この六信舎の近くに堀野関太郎がおり、常に六信舎を訪れて技術を覚えやがて堀関製紙を創立して六信舎と生産競争をするようになりました。
 この生産競争は、チリ紙工業にとって画期的なできごとで、量産体制が確立すると、たちまち中央の市場に重きをなしていきました。
 つまり、技術を資本とした技術者の工場経営者が、その技術を競いあっているうちに生産基盤を確立、だんだん市場が確保されていくというプロセスで発展していったのが吉原、今泉地区の製紙工業で、富士製紙に連なる基盤にくらべ著しい特質を示しています。
大昭和など地元資本の工場続出
 大正7年。吉永、原田今泉の有志は、芦川万次郎らを代表として、根方軌道をつくりたいと、その計画をまとめ、申請しようとしていました。これは吉原町や、吉原町の堀内半三郎らの反対にあい、不成功に終ってしまいました。
 しかし、この根方軌道の敷設が問題になった前後から、川口柳作や堀野関太郎らのきずいた吉原の製紙工場の基盤は確立していました。今泉から吉原までのわき水地帯に大小の工場が創立され“紙都吉原”への道がようやく開かれたころでした。このころはちょうど明治百年の半ばでした。
 このように吉原の製紙工業の路線は、なお幾多の曲折を経験しつつ、斉藤知一郎に代表される大昭和製紙のような、土地の資本をもととした、富士−王子−本州系とは異った型の中で雑草の如く力強く発展していくのです。

“水”とのたたかい
沼川六つめがねと昭和放水路の構築
 為政者や直接生産者の体験した、きびしい国際的経験が基調となって、この地方の産業構造は急速に変革していきました。
 つまり、いままで未開発であった畑作地帯や原野は茶に、工業の近代化路線は製紙を中核としてあるときは停滞し、あるときは拡充、発展といった、ジグザグなコースをたどりながら、今日にいたったのが富士市の明治百年です。
 また、富士市の百年の歴史の中で忘れてはならないものに“水”との戦いがあります。
 水にはときおり襲ってくる津波の被害も大変でした。それにもまして沼川から逆流する海水は浮島沼に流れこみ、しばしば稲作に対して決定的な被害を与えました。このため、汐除堤(しおよけつつみ)を構築したり流れこんだ潮水を再び海へ排出するための工夫がなされました。
 これからの人に、古くは高橋勇吉、増田平四郎らがあります。これら先人の事業を継承して明治16年から伊達文三らが中心となって石水門の工事に着手。同18年には完成し、それまでのような被害はなくなりました。
 しかし、浮島沼の周囲に開かれた村々の生産が安定したといっても、それで十分とはいえませんでした。
 こうした悩みの解決に積極的に取組んだのが金子彦太郎らでした。その一つの成果が昭和放水路(第一)です。この工事はきわめて困難をともないましたが、その成功によって新しい土地が開かれ、付近の人にとっては文字通りの宿願が解決したわけです。こうして、この地方にもかって想像もできなかった、豊かな生産が保障されるようになったのです。
 以上のように、富士市の明治100年を限られた事実を手がかりにみると、それはこの地方に住んだ人がつねに地域の新しい可能性を探究し、可能性の実現に粘り強く、真剣に取り組んだ、苦難に満ちた歴史であったことを示しています。
 今日のこの地域の繁栄の背後にある、地域の発展に取り組んだ先人の存在を忘れては、明治100年の意義は、むなしいお祭り騒ぎにしかすぎないのではないでしょうか。
 静かにこの百年をふりかえり、新しい地域の可能性と、国家の将来を探究する年であることを、先人たちは無言のうちに教えてくれているように思います

投稿していただいた若林淳之(あつし)さん

- 写真あり -
 慶応4年9月8日。維新政府はこの日、元号を“明治”と改めました。以来かぞえて百年目が、ことしにあたるわけです。
 だから、ことしは政府をはじめ地方自治体などでは、思い思いの行事をとりおこない、こし方百年を記念するとともに、新しい日本の門出ともしたいとしています。
 私たちは、明治百年をただなんとなくムードで、お祭り気分でむかえ、自ら考える余地も、選択する余地もないままに、日本の方向が一方的にある方向に、むかわせられることが、果して国民の幸福に連なり、市民の幸福に連なるものなのでしょうか……
 いま一番必要なことは、国民の一人一人が主体的に明治百年の意義をうけとめ、自らの手で新しい日本の将来を選択していくべきではないかと思います。
 こうした意味でこの小論が、明治百年をむかえるにあたり明治百年の意義を考えるなんらかの資になれば幸せです。
 (文中、登場者の敬称を略させていただきました。若林)

登場人物

磯部物外
 天保6年に生れる。蓼原村に住み小学校教師となり、県議会議長をつとめ、この地方の自由民権運動の指導者

深井 譲
 天保8年江戸に生れ、明治38年加島村で74歳で没す。平垣村稲中舎校長をつとめ生涯教育につくした。

生駒藤之
 天保14年江戸に生れ、大正8年77歳で没す。万野開拓地の教育につくし、後にボク清舎の校長となる。

野村一郎
 天保3年西比奈村に生れ、明治12年48歳で没す。吉原湊口の砂防堤など公共事業につくし、内山開墾、製茶の奨励につとめた。

内田平四郎
 天保10年吉原に生れ、明治43年67歳で没す。ミツマタの栽培、手すき和紙の改良につくし、入会地の開墾につくした。

栢森貞助
 天保12年依田原新田に生れ、明治40年67歳で没す。地方自治につくし、鈎玄社を創立し竹、ワラのパルプを製造した。

松永安彦
 万延元年平垣村に生れ、昭和6年73歳で没す。村長、貴族院議員などをつとめ、この間工場誘致、身延鉄道会社設立につくした。

川口柳作
 明治20年今泉村に生れ、昭和42年81歳で没す。六信舎、東邦、富久興各製紙を創立、紙業興隆につくした。

堀野関太郎
 明治7年今泉村に生れ、昭和39年91歳で没す。手すきの堀関製紙所を創立し、後に機械すきにし、紙業の発展につくした。

斉藤知一郎
 明治22年比奈村に生れ、昭和36年72歳で没す。大昭和製紙を創立、我国紙業界の興隆につくし、田子浦工業学校の創立など教育振興にもつくした。

金子彦太郎
 明治16年今泉村に生れ、昭和38年81歳で没す。衆議院議員、吉原市長などを歴任、地方自治につくし、その間治山治水、茶業、畜産にもつくした。
- 写真あり -
( 写真説明 ) 大正初期“吉原湊”(現在の田子の浦港)
( 写真説明 ) 鉄道馬車の開通にわきかえるひとたち(現在の富士駅前通り…明治43年ころ)
( 写真説明 ) 松永安彦
( 写真説明 ) 斎藤知一郎
( 写真説明 ) 金子彦太郎

係りから

“わがふるさと、百年の歩み”を若林淳之先生(44歳)=富士宮市粟倉941=にお願いしました。
 執筆された若林先生は静岡大学教育学部助教授であり、当市の市史編さん委員会の監修者でもあります。
添付ファイル
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