寛文年間(1661〜1672)のころの話です。
秋晴れのある日、岩淵の渡しから寵下村(松岡)へ渡ってきた巡礼姿の老夫婦がありました。
代官屋敷の前までくると役人がきて、老夫婦を門内に導きましたそして役人は次のような話をしました。
「ごらんのようにこの付近の田んぼは河原のようになっています 代官様が親子3代50年にわたり富士川の洪水を防ごうと堤防をつくってきたが、いつも水に流されていつ完成するか見当もつきません。ところが、10日ほど前から誰いうともなく“人柱”をたてればよいということになり、その日から富士川を渡って来た1,000人目の者を人柱にたてることにした。その1,000人目があなたです。まことに申し憎いことですが、あなたに人柱になってほしいのです」。
やがて巡礼は静かに口を開きました。「よくわかりました。わたしの露のような命がみなさんのお役に立てば本望です。しかし。これから東国の霊所を巡ってくるまでまってください」。と微笑さえ浮べて言いました。
それから3か月後のある日、老夫婦は松岡代官屋敷に帰ってきました。あくる日「妻を頼みます」と遺言を残し、男の巡礼は雁堤の人柱にたちました。
白木の棺に巡礼を入れ、ふたに穴をあけ、長い竹をさし込み、竹の先が堤防の上に出るようにして3メートルの穴の中にうめました。それから50日の間、地の底から念仏と鐘の音が聞えてきたといわれています。 (鈴木富男稿)