富士市 FUJI CITY Official Site

富士市
広報ふじ > 昭和41年 > 昭和41年10月31日合併特集号(吉原市の広報よしわら) > 【広報ふじ昭和41年】吉原の変遷

【広報ふじ昭和41年】吉原の変遷

「よしわら」と呼ばれたのは、いつからであろう−
 吉原宿の初めは今の田子の浦港の東岸に鎌倉時代の初期に構えられた見附宿でした。それから330年から40年後の天文末期に、津波や漂砂のため元吉原宿(今井鈴川地区)に所替えをし、その時「よしわら」と正式に宿名(しゅくめい)が定められました。この元吉原宿も津波に襲われ、寛永16年に中吉原宿(依田橋西方)へ。天和元年にこの宿も津波に襲われ、新吉原宿(旧吉原地区)に移りました。その後は津波にも襲われず、明治22年3月1日に町制を施行して吉原町となり、昭和23年4月1日に市政をしいて吉原市となりました。そして昭和41年10月31日までの約412年間、わたしたちが使いなれ、聞きなれた「よしわら」でした「吉原」と宿名が定められたのは天文末期でしたが「吉原」という土地の名前として呼ばれたのは鎌倉時代です。その頃の公文書には「吉原」の字は見当りませんが「続郡書類従・春態深山路」の、弘安3年(1280年)の項に「…伴の者共渡るを待つほど吉原とて少し家のあるに立ち入りて余り寒ければ芝をくべて…」と記されています。弘安3年といえば今から686年前の鎌倉初期ですがこのころすでに「吉原」と呼んでいたことがわかります「渡るを待つ」というのは吉原湊=現在の田子の浦港=を渡船したことです。また「東国紀行」の著者宗牧が天文14年正月(1545年)にこの地を通ったときの一節に「蒲原につきたれば…中略…吉原の返事も只今到来と見せられたり」と記してあります。このように、正式に宿名が「吉原」と定められる前から習慣的に見附宿を「吉原」と呼んでいたことがわかります。
 なお一般には「よしわら」とは沼にはえているよしからとった名前と考えられていますが、それについて確かな史料はいまのところありません。しかし「田子の古道」(享保18年ごろ書かれたもの)には「見附宿の所替えして今井と一宿となる長(おさ)共集り…中略…今井見附一つになってよい宿なれば吉原と付けんとて付けたる名なれば吉原こそ本字なり」と記されているのを見るとよしや葦とは関係がないように考えられます。 鈴木富男稿(地方史研究会長)
- 写真あり -
添付ファイル
※PDFを初めてご覧になる方は、ソフト(Adobe Reader)のダウンロードが必要です。
「Get Adobe Reader」のボタンをクリックし、説明に従いAdobe Readerをダウンロードして下さい。
Get Adobe Reader
広報広聴課 (市庁舎8階北側)
電話:0545-55-2700 ファクス:0545-51-1456
メールアドレス:kouhou@div.city.fuji.shizuoka.jp
〒417-8601 静岡県富士市永田町1丁目100番地 電話 0545-51-0123 ファクス 0545-51-1456
E-mail kouhou@div.city.fuji.shizuoka.jp